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茶碗のことどれくらい知ってる?日本のお茶碗の雑学②

江戸幕府の茶碗と茶の湯、庶民への普及


本阿弥光悦作「楽焼白片身変茶碗 銘不二山」 サンリツ服部美術館所蔵 出典:https://chiyoku.com/teabowl-kokuhou/

千利休は信長の死後、秀吉に仕えるも、切腹を命じられ悲劇の最期を迎えてしまいます。原因には諸説あり、はっきりとはしていませんが、利休の助命のために古田織部や前田利家、細川忠興など錚々たる大名たちが動いています。このことからもわかるように、利休の精神は多くの大名に浸透していて、それは時代が移り変わった江戸時代にも受け継がれます。
「侘び茶」は、「茶の湯」とも言われるようになり、江戸幕府では武士の儀礼として茶の湯を取り入れて、全国的に普及していきました。それに伴い、茶碗の生産も全国に広がります。江戸時代には、中国大陸の「唐物」、朝鮮の「高麗物」とならび国産の茶碗を「国焼(くにやき)」と言うようになります。当時、多くの陶器や茶碗は瀬戸焼だったので、国焼は一般的に瀬戸焼以外を言い表す言葉となっています。
国焼では、「藩窯(はんよう)」と言って、有力大名たちが領内で窯を経営して、高級な焼き物を製造するケースも見られました。有名なものでは鍋島藩の鍋島焼や黒田藩の高取焼などで、幕府への献上品にもなっていました。
江戸時代には、茶碗や陶器・磁器を製作する作家や職人も多く現れています。有名なところでは、現在国宝となっている楽焼白片身変茶碗(らくやきしろかたみがわりちゃわん)などを製作した本阿弥光悦や、備前国(現在の佐賀県)で柿右衛門様式という陶器の絵付で知られる初代酒井田柿右衛門(柿右衛門の名称は襲名制で、現代にも受け継がれています)、野々村仁清などです。
江戸時代は多くの銘品が生まれ、作陶や絵付けなどの技術が大きく進歩し、茶碗の歴史が大きく転換した時代と言えるでしょう。
また、お茶の習慣は庶民へも大きく広がり、茶碗を使用することも多くなります。次第に食器類も陶器や磁器を使用するようになり、主食となる米などの穀物も茶碗に盛るようになっていきました。

出典:https://www.athome-academy.jp/archive/culture/0000001095_all.html

近代の茶碗


出典:https://www.mitsubishielectric.co.jp/club-me/knowledge/washoku04/02.html

明治に入ってからは、産業革命の影響で、茶碗をはじめとする陶器や磁器類も生産性が重視されるようになり、大量生産品が多くなりました。そのお蔭で、品質が良く安価な茶碗が多く流通するようになり、現代に見られるように茶碗は食器としてなくてはならないものになったのです。
一方で、生産性を追い求める社会的な風潮から、職人が手作りをするような茶碗は衰退してしまいます。美術史上でも、明治期の茶碗陶器、磁器の評価は低く、芸術的に価値の高いものは少ないとされています。
昭和となり、戦後を迎えると茶碗の芸術性が再度注目を浴びるようになり、優れた職人や作陶家が素晴らしい作品を製作するようになっていきます。


出典:https://thankyou-cha.com/sennorikyu/

このように歴史上、茶席は社交の場、ときには戦略的な駆け引きの舞台となり、そこに登場する茶碗は、権力の誇示や考え方の象徴としても使われました。
茶席にはさまざまな深謀遠慮が渦巻き、銘品の茶器を追い求め武将たちはあらゆる手を尽くしました。そして、「茶の湯」には「毒」があるとも言われます。茶聖である千利休は秀吉に切腹を命じられ、利休の弟子でもあった古田織部は家康によって切腹を命じられます。また、茶人としても有名なだった井伊直弼は江戸城桜田門で暗殺されるなど、波乱の時代であった戦国時代や江戸時代末期に生き、「茶の湯」に関わった人たちは、その「毒」によって悲運の最期を遂げることもあったのです。

さまざまな茶碗の種類

茶碗には非常に多くの分類があります。形、どこの窯で焼かれたか、その窯ではどのような釉薬を使用しているかなど、すべて説明するには本1冊では足りないでしょう。それだけ多くの種類があり、専門家はそれぞれの特徴を把握して評価をしていくのです。本稿では、「唐物」「高麗物」「国焼」という基本的な3つの種類に分けて解説していきましょう。

唐物

中国大陸で製造されたものを唐物(からもの/とうぶつ)と言います。高貴できらびやかな雰囲気を持つものも多く、現在では国宝に指定されているものもあります。以下に唐物の代表的な種類である「天目茶碗」「青磁」「染付・赤絵」をご紹介します。

天目茶碗


灰被天目茶碗(虹) 出典:https://chiyoku.com/teabowl-juubun/

鉄を使用した釉薬、「鉄釉(てつゆう)」を使用して焼かれた茶碗です。多くの場合は黒色に発色していますが、釉薬の鉄分含有量によって発色が異なってきます。
代表的なものは、現在の福建省南平市建陽区にある建窯(けんよう)で作られた建盞(けんさん)という茶碗や、江西省吉安県にある吉州窯で作られた玳皮盞(たいひさん)/鼈盞(べつさん)という茶碗があります。

青磁


青磁 出典:https://chiyoku.com/teabowl-01/

青磁釉をかけて焼成した磁器で、青い発色、透明感が特徴となります。侘び茶の祖である村田珠光は、この青磁で「櫛目文」など特徴的な文様の入った茶碗を好んだことから、中国同安窯のものを「珠光青磁」と称することもあるようです。

染付・赤絵


染付 出典:https://chiyoku.com/teabowl-01/

中国大陸で、宋時代(960年~1259年)に青磁や白磁といった焼き物がつくられるようになりました。しかし、模様を書く技術はなかったと言います。その技術をもたらしたのが、現在のイランやイラク周辺で採取されたコバルト顔料でした。

呉須赤絵 出典:https://chiyoku.com/teabowl-01/

元時代(1271年~1368年)の後半には景徳鎮(けいとくちん)地方で、鮮やかな青色で模様を描く「染付(そめつけ)」が盛んになります。その後明の時代になると、赤、緑、黄、青、黒の釉薬で模様を描いた「赤絵(あかえ)という技法も開発され、色彩豊かな磁器を製造できるようになりました。
茶碗も多くありますが、どちらかと言えば、観賞用の大型の壺などが多く、いわゆるシルクロードを通って、ヨーロッパ各国へと輸出されていました。

高麗物

朝鮮半島で製造された茶碗です。もともとは日常的な食器として使用されていたものですが、侘び茶が隆盛となるにつれて、華美な唐物よりも素朴な高麗物が使用されるようになります。
元来茶器としては製作されていないので、素朴で均一ではない「ゆがみ」がありますが、それを「見立て(本来茶の湯の道具でないものを、茶の湯の道具として見立てて取り入れること)」て、使用していました。高麗物は、日本の侘び茶によって、その価値を創出されたといっても良いでしょう。代表的なものに「井戸茶碗」「三島茶碗」「御本茶碗」があります。

井戸茶碗


国宝井戸茶碗 銘喜左衛門 孤篷庵所蔵 出典:https://chiyoku.com/teabowl-kokuhou/

青磁系統の焼き物で、黄褐色の口が広い形状をしています。16世紀前半頃、現在の朝鮮半島の全羅南道から慶尚南道にかけての海岸沿いに窯があったと推測されています。作風や形状によって、「大井戸」「小井戸」「青井戸」などに分けられ、茶会では非常に珍重されていました。
「井戸」という名称には諸説あり、当時の地名から付けられたとの説や、戦国大名である井戸若狭守(いどわかさのかみ)が最初に持ち帰ったなどの説があります。

三島茶碗


三島茶碗 出典:https://chiyoku.com/teabowl-01/

15世紀から16世紀にかけて製造されていた茶碗と考えられています。大きな特徴は「象嵌(ぞうがん)」です。鉄分の多い土でできている三島茶碗は焼成すると黒っぽくなります。そこに模様を彫り、白い土の中に埋めることによって、白い模様が浮かび上がります。
模様は様々なパターンがあり、点と線を組み合わせたものや「印花」といって、花のようなものもあります。三島茶碗の場合、この模様の品質が作品の善し悪しを判断する基準になると言われています。
また、「三島」という名称は、この模様から来ているという説が有力です。三島茶碗に施された、あるパターンの模様が静岡県三島市にある三嶋大社が発行していた「三島暦」という暦と似ていたというものです。

御本茶碗


御本立茶碗 出典:https://chiyoku.com/teabowl-01/

「井戸茶碗」や「三島茶碗」は、朝鮮半島で製造された、茶器ではないものを「見立て」て、価値を見出し茶会で使用していました。
一方で江戸時代初期頃には日本で下絵などを描いて、朝鮮半島の窯に発注をする「御本茶碗(ごほんちゃわん)」も出てきました。「御本」とは、手本のことで、言わば設計図を渡して製造してもらった茶碗ということになります。
有名なものでは、「御本立鶴茶碗」という茶碗があります。これは、大名茶人として知られる小堀遠州が形状をデザインして、三代将軍徳川家光が鶴の下絵を描いて発注したものです。この茶碗は釜山の窯で焼かれて、喜寿の祝として、初代肥後細川家当主の細川忠興(細川三斎)に送られました。

国焼

上記2つのものは輸入品ですが、国焼とは、その名の通り国産の茶碗となります。室町時代から生産されていましたが、江戸時代に入ると、瀬戸焼は別格として国焼に属さないとする習わしになりました。
室町時代には瀬戸焼が唐物の天目茶碗を模した茶碗を製造していますが、ほかの地方では、あまり茶碗を生産していなかったようです。しかし、利休の侘び茶が普及してからは、高麗物の「見立て」以外にも、利休は「創造」を重んじて、理想とする茶碗を窯元に焼かせるようになります。その傾向は、ほかの茶人や大名にも波及をして、多くの窯元が生まれました。
以下に「楽焼」「美濃焼」「有田焼」をご紹介します。

楽焼


黒樂茶碗 初代長次郎作 出典:https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00000731.htm

楽焼は、瀬戸焼など地域の名称が付けられている窯元とは成り立ちが異なり、千利休が京の長次郎という人物に、自分の理想とする茶碗を焼かせたのが始まりです。
誰もが認める素晴らしい茶碗をつくったため、二代目となった人物に、豊臣秀吉から「樂」の印を授けられて作品に押すことを許され、「樂焼」となったと言います。
同時に一族は「樂家(らくけ)」を名乗り、代々、茶碗師「樂 吉左衞門(らく きちざえもん)」を襲名、2019年には16代目が襲名しています。
ろくろを使用しない「手捏ね(てづくね)」成形をおこない、低温で焼成するのが特徴で、歪みや不作為も美しさとする、利休の考えた究極の「侘び」と言えるでしょう。また、厳密に言えば「樂焼」は 「樂 吉左衞門」を襲名した者のみが、作陶した器ということになります。

美濃焼


「織部好み」を反映した織部焼 出典:https://chiyoku.com/teabowl-01/

美濃焼は現在の岐阜県東濃地方で製造される陶磁器です。その歴史は古く、平安時代から陶器類を製造していたと言われます。桃山時代から江戸時代にかけては、大規模な窯が多く開かれています。
茶人でもあった古田織部が工夫をこらしてつくらせた「織部好み」や国宝である志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)など、数々の銘品を生み出しています。

有田焼


出典:https://www.1bankan.com/shop/goods/goods/goods.php?act=Goods&mode=Detail&id=00002804&cartsessid=da5d7752540ea6f66723b59ef4986c94

透明感のある磁器で有名な有田焼。現在の佐賀県有田町周辺で生産がおこなわれています。この地域に窯を開いたのは、当時の朝鮮から来た陶工、李参平(りさんぺい)でした。肥前国藩主である鍋島氏の命により、白磁を製造するのに適した土地を探して、有田西部に窯を開きました。磁器の材料となる陶石をこの地で発見したからです。
その後、この有田の地で、1616年、日本で初めて白磁器を産業化しました。また、少し後の1640年頃には酒井柿右衛門が赤絵の絵付けを考案し、白磁器に彩色したことで、非常に人気が出たと言います。
江戸時代には、有田焼の中でも最高級のものを「鍋島焼」といって、肥前国から幕府への献上品としても使われています。また、17世紀半ばには中国大陸の政権が不安定になったため、海外で人気のあった白磁の需要が日本に移り、輸出も盛んにおこなわれていました。当時輸出の方法は当然船でしたから、輸出用の高級白磁は輸出の起点となった伊万里港の名称から「伊万里焼」と言われることもあります。

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