実家の危機を知り飛び込んだ草履職人の世界
軽部 聡氏 参照:https://www.athome-tobira.jp/story/163-karube-satoshi.html
軽部聡氏は1986年 山形県出身です。山形で昔から製造されていた「豊国草履」製造する老舗草履製造所「軽部草履」の三男として生まれました。幼い頃から草履づくりに興味はあったものの、「脚本家になりたい」という夢があったこと、長男が家業を継いだことから夢を求め東京で働いていました。しかし、職人が足りなくて需要はあるのに製造が間に合わない、という現状を知り、伝統を受け継ぐために職人になることを決意。現在では数少ない若手草履職人です。
東京で知った実家の現状
1足の草履を編み上げるのに約90分の時間を要します 参照:https://karubezouri.com/introduction_02.php
東京の大学に進学した軽部氏は、脚本家になる夢を叶えるために脚本家の見習いと、テレビや映画の小道具会社でアルバイトをしていました。映画や舞台の小道具では、実家の草履が使用されていることもあり、軽部氏はそのことに誇りを持っていたと言います。
しかし、そんな軽部氏がショックを受けたのは、出演俳優さんから草履の要望をもらったときでした。実家に連絡すると、「もう職人さんたちもみんな若くないから、すぐには対応できないんだ」との返答だったのです。それを聞いた軽部氏は「このまま若い職人が入らなければ手編み草履の技術が失われてしまうかもしれない」と思い、帰郷を決意。会社自体は長男が継承することになっていましたが、経営と職人仕事の両立は難しいとも思っていたため、以前からサポートする気持ちもあったそうです。
山形草履の最高峰「豊国草履」
最終工程鼻緒を草履に挿し込む「地入れ」、底材を縫い付ける「底付け」、「接着」 参照:https://karubezouri.com/introduction_02.php
「豊国草履」とは、山形で生産されている「山形草履」のひとつです。江戸時代の後期、現在の西村山郡一帯は稲作農家がほとんどであり、農家は雪に閉ざされる冬の間、貧しい生活に耐えるしかありませんでした。
そこで、冬の間にも収入を得るために始められたのが、稲藁を使って草履を作ることでした。草履作りは思いの外、多くの農家に広まり、山形草履の生産数は他の3大産地であった三重・奈良・静岡を抜いて日本一になりました。
特に明治期になると、山形で多く作付けされていた「豊国」という品種の稲藁が細くて柔らかく、草履作りに適しているとして、「豊国草履」として普及していったのです。
しかし、第二次世界大戦のを経て、産後の生活様式は一変。草履の需要は激減してしまい、山形の草履産業はほとんどがニット産業やスリッパ産業に転換していったのです。
受け継がれる伝統技術
共二枚合わせ草履 参照:https://karubezouri.com/archive_view.php?id=68
需要がなくなり、草履を作る職人が激減してしまった山形の草履産業。技術を教える人材も高齢化しているそうです。
技術は師匠からの預かりもの
漂白した竹皮草履に極細の手縫い鼻緒を挿げ、つま先部分を反り返らせた特別品 参照:https://karubezouri.com/archive_view.php?id=69
軽部氏が草履職人になるため、最初に習った師匠は「寒河江で一番の草履職人」と言われた、松田まさの氏でした。軽部氏の父親である軽部草履の2代目軽部俊男氏も同氏に草履作りを習ったという名人です。
しかし、草履作りはそれほど簡単に習得できるものではありませんでした。軽部氏はなかなか思ったように技術が上達しない自分自身に、嫌気が差すこともあったと言います。
ある日のこと、思い余って「もうやめたい」と言ってしまった軽部氏に、松田氏は次のように言いました。「技術っていうのは師匠からの預かり物で、技術を弟子に渡すのも仕事のうちだから、私は教えるの嫌だと思ったこと一度もないよ」。それを聞いた軽部氏は、さらに熱心に草履作りの習得に集中していくのです。
日本でも希少な手編み草履を製造する軽部草履株式会社
豊国-TOYOKUNI-銀鼠(ぎんねずみ) 参照:https://karubezouri.com/goods_view.php?id=80
軽部氏の実家である軽部草履株式会社は、日本でも数少ない手編みの草履を生産する企業。前述の時代劇などに使用されている他、大相撲で機敏な動きが要求される行司の方々も「履きやすさ」を追求した豊国草履の使用者です。また、人形浄瑠璃の人形が履いている草履や歌舞伎、日本舞踊など、日本の伝統文化を支えています。
現在は亡くなった松田氏とは別の師匠の元、職人として草履作りをしている軽部氏。「一通り作業はできますが、先生方のようにできるかと言ったらまだまだだと思います。 先生方から学ぶことはたくさんありますが、僕も師匠から預かった自分の技術を次の世代に残していかなければ、と思います」と語り、伝統技術の継承に意欲的に取り組んでいます。