兄弟で受け継ぐ九谷焼の伝統
山本 浩二氏 参照:https://www.athome-tobira.jp/story/161-yamamoto-koji-shuhei.html
山本浩二氏は1988年、山本 秀平氏は1989年、石川県の出身です。2人は加賀市にある九谷焼窯元、加賀陶苑の当主である山本芳岳の次男と三男として生まれました。日本の伝統的な焼き物を製作する家に生まれた2人は、幼い頃から九谷焼の美しさに魅了され、兄弟で職人の道を選びます。今回は現代に九谷焼の伝統と魅力を継承し広めている2人の兄弟を、前編と後編でご紹介していきます。
ろくろ、絵付けを兄弟で分担
成形の様子 参照:https://www.discoveryjapan.jp/program/athome/8xwpqlw0z6/
山本浩二氏、秀平氏は高校を卒業後、兄弟で京都府立陶工高等技術専門校(京都陶芸大学校)に進学し、兄の浩二氏はろくろ成形、弟の秀平氏は絵付けを学ぶことになります。
九谷焼の大きな特徴はその形状と絵付け。2人はこの2つの技術をそれぞれが習得して、合わせて作品を製作しようと考えていたのです。九谷焼のろくろ師は、単にろくろ上でかたちを作っていくだけではなく、自ら彫ったレリーフに合わせて指先で丁寧に写し取る「型打ち技法」が必要です。
一方で、絵付けでは伝統的な赤絵具を使用した繊細な絵付けが必要。2人はお互いの技術を磨くことで高品質の九谷焼を製作することを目標としたのです。
九谷焼の歴史
「白砡描割」 参照:https://kagatouen.com/works%e3%80%80%ef%bc%8d%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%8d/
九谷焼は多くの方が知る陶磁器で、1975年(S50年)に九谷焼が通商産業省(現経済産業省)より伝統工芸品に認定され、翌51年には石川県無形文化財に指定されました。
その発祥は石川県加賀市山中町九谷村で、地名から「九谷焼」という名称がつきました。一般には1665年頃に製作が始まったとされています。この時期の九谷焼を「古九谷」と呼びます。しかし、開窯からわずか50年で生産が終了してしまい、未だにその明確な理由は不明となっています。
ただ、100年の時を経て、九谷焼は江戸時代後期の文化3年(1806)金沢の春日山窯にて復興を遂げます。その後、産業指向の多くの窯が九谷焼の製作を開始。その流れが、現在の九谷焼製作の源流となっています。
ろくろ師の仕事
ろくろを回す様子 参照:https://www.discoveryjapan.jp/program/athome/8xwpqlw0z6/
伝統ある九谷焼の工程は、大きく分けて2つに分けられます。一つは土作りから成形といった「ろくろ師」の仕事、もう一つは色彩を塗っていく「絵付け師」の仕事です。
九谷焼の工程①
「加賀聖釉」 参照:https://kagatouen.com/works%e3%80%80%ef%bc%8d%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%8d/
主にろくろ師が担当するのが「土造り」と「成形」になります。土造りは原料となる陶石を粉末状になるまで砕き、陶土を加えて混入し、十分に攪拌します。何種類かの陶石と陶土が水の中でよく混ざり合った後、水槽に沈殿した粒子の細かい粘土状の土だけを集めて「坏土(はいど)」ができあがります。九谷焼の場合、とかく色絵付けの良否に目が向けられがちですが、「九谷の美しさは坏土に始まる」と言われるほど重要な工程です。
成形は、主に轆轤(ろくろ)を使って一つひとつ手作りすることの多い九谷焼では重要な作業段階といえます。手のひらや指先を器用に操り、クルクルと回る轆轤上の土の塊をどんな形にも変えてしまう作業は、器造りの真髄といえます。その後成形した素地を半乾きにし、ゆがみなどを修正して仕上げ削り、彫り模様がある場合はこの時に行います。
古九谷を継承する
素焼き前の作品 参照:https://kagatouen.com/atelier%e3%80%80%ef%bc%8d%e5%b7%a5%e6%88%bf%ef%bc%8d/
ろくろ師として活躍している兄の山本浩二氏は、伝統九谷焼工芸展奨励賞など、多くの受賞歴があり、令和4年には「経済産業省認定資格 九谷焼伝統工芸士」にも認定されています。
浩二氏は活動の基本を次のように語ります。「九谷焼の原点は、今から約370年前の江戸時代前期に作られた古九谷です。僕は素地きじを作る時、古九谷から学ばせてもらっています。古九谷の形はすごくきれいで、決して古さを感じることはありません。先人が残してくれた遺産であり、教科書だとおもっています」
その言葉通り、浩二氏は伝統の形からヒントを得て、新しい九谷の形を常に考えています。そして、伝統を継承しながら新しいものを生み出していく姿勢は、絵付け師である弟の秀平氏にも大きな影響を与えています。{後編へ続く)