釣り好きの少年が職人へと成長
鴨下 貴仁氏 参照:https://www.athome-tobira.jp/story/174-kamoshita-takahito.html
鴨下貴仁氏は1987年東京都府中市の出身です。釣りが大好きだった少年時代に和竿と出会い、和竿職人を目指すようになります。22歳で独立した職人としての技術、そして、釣り竿に美しさを求める仕事ぶりが話題となり、若き職人として多くの人から注目を集めています。
妥協をしない姿勢が生みだす逸品
8寸切 6本矢竹並継 1.2 m 竿貴塗りすげ口 真竹削穂先 矢竹根堀手元 参照:https://seki-tsuriguten.com/products/%e7%ab%bf%e8%b2%b4-%e4%bd%9c%e3%80%80%e7%9f%a2%e7%ab%b96%e6%9c%ac%e4%b8%a6%e7%b6%99%e3%81%9f%e3%81%aa%e3%81%94%e7%ab%bf-%ef%bf%a572000%ef%bc%88%e7%a8%8e%e8%be%bc%ef%bc%89/
「良い竹に出会うためには何日でも薮に入って諦めずに探し続けます。竹だけではなく漆や、火入れに使用する炭も試行錯誤を繰り返して選び抜きました。 必要な道具が売っていなくて自分で作ったこともありました」と語る鴨下氏。このように『完璧な竿』を目指すのは、師匠の教えだと言います。
鴨下氏は高校入学とほぼ同時に4代目竿治(糸賀一隆氏)に弟子入り。そこで教わったのが、材料の美しさを引き出すことでした。残念ながら糸賀氏は鴨下氏が20歳の頃他界してしまいますが、その作品に対する姿勢は22歳で「竿貴」の屋号で独立した鴨下氏が受け継ぐいでいます。
歴史ある江戸和竿とは
現代にも続く東作の店舗 参照:https://sites.google.com/view/edowazao-official/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%92%8C%E7%AB%BF%E7%B5%84%E5%90%88-home
江戸時代、江戸っ子の釣り暦は、春のフナから始まり、アオギス、アユ、黒鯛、秋のハゼ、ボラと続き、寒のタナゴで締めくくるものだったと言います。
その多彩な釣りの種類ごとに適した竿が求められ、釣り人は調子や釣り味にこだわりました。このような釣り人のニーズを満たし、江戸の釣り文化を牽引したのが泰地屋東作(たいちやとうさく)という人物です。
天明3年(1783年)、泰地屋東作こと松本東作が武士の身分を捨て、東京の下谷稲荷町に釣り竿屋を開業したのが江戸和竿の始まりと言われています。以来、現在まで多くの江戸和竿職人が誕生し、江戸和竿の伝統を守り続けています。
伝統を受け継ぐ職人技
制作の様子 参照:https://www.kcf.or.jp/nakagawa/event/detail/?id=3877
10代の頃に弟子入し、20歳の頃に他界してしまった親方から、鴨下氏は短い期間でもとてもたくさんのことを学んだと言います。また、親方以外からの竿職人からも、江戸時代から続く多くの職人技の影響を受けることで、現在の自分の作品があるとも語ります。
「ひと手間を惜しむな」の言葉を胸に
根堀布袋竹たなご延竿 全長62cm(17節) 専用納筒付
「材料の美しさを引き出している竿が好きなのですが、意匠に関しては特に『初代 竿忠』の竿に影響を受けました」と語る鴨下氏。特に立ち枯れの胡麻竹を模して黒漆で胡麻模様が打ってあり、 塗りで陰影が付いている作品が「侘び寂び」を連想させて特に好きだと言います。
そして、この竿を見た時に実感したのが、「あと一手間で美しくなるのであれば、その一手間を惜しまないでやりなさい」という親方の言葉でした。
以来、改めてその言葉の深い意味を噛み締めながら、竿づくりに精進すると誓ったと言います。
親方の技を次の世代へも残したい
8寸切 5本矢竹並継 1m 四分一団十郎塗りすげ口 真竹削穂先 矢竹根堀手元
鴨下氏が親方から言われた言葉で、もう一つ忘れない言葉が「弟子を最低一人はとりなさい」というものでした。
この言葉には江戸時代から伝わる和竿の技術、そして、職人として、人として大切なことを後世にも伝えてほしいという願いが込められているような気がします。
この言葉に呼応するように、「職人の道は決して易しいものではありませんが、僕は親方に弟子入りしてから20年経った今でも毎日が楽しいです」と語る鴨下氏。
若き江戸和竿職人は、自分の技術を極めて行くと同時に、いずれ次の世代へも引き継いでいくでしょう。