日本一の匠と逸品を知りたいみんなのためのコミュニティサイト 匠ウォンテッド

日本のものづくりデザイナー26~和傘職人・河合 幹子(かわい みきこ)~

日本一の和傘産地で奮闘する若き和傘職人


河合幹子氏 参照:https://nagaragawastory.jp/223

河合 幹子氏は、1987年生まれ、岐阜県岐阜市の出身です。東京の折込広告会社に勤務していましたが、生まれ故郷の岐阜にUターン就職。税理士事務所に勤務します。在職中に老舗和傘問屋「坂井田永吉店」3代目の叔父に誘われて、27歳で和傘職人の道へ進みました。現在では人手不足と高齢化の進む業界で、創意工夫を重ねながら岐阜の和傘を守る職人として活躍しています。今回は和服だけではなく、日常的に使用できるデザインの和傘を製作している和傘職人、河合幹子氏をご紹介します。

いつかは和傘を製作したいと思っていた


糸かがり工程の様子 参照:https://nagaragawastory.jp/223

「和傘と言えば京都や金沢などを生産地として思い浮かべる人が多いのですが、岐阜市周辺は国内生産量の3分の2を担う一大産地なんです」と話す河合氏は、岐阜でも老舗の和傘問屋「坂井田永吉店」の家系に生まれました。そのため、和傘は子供の頃からとても身近な存在であり、そのときから漠然とではありますが、「ゆくゆくは和傘制作に携わりたい」と思っていたそうです。
ただ、特に具体的なプランはなく、最初の就職は東京の折込広告会社を選び、その後は簿記の資格を活かして故郷である岐阜の税理士事務所へと転職します。しかし、27歳のときに突然転機が訪れます。「坂井田永吉店」3代目の叔父から「和傘をやってみないか」と声が掛かったのです。
冒頭に河合氏が語ったように、長良川流域では、和傘の原料となる良質な竹や美濃和紙、荏油、わらび糊などに恵まれたことから、江戸時代に和傘製造が地場産業として発展。昭和初期のピーク時には、年間一千万本を超える和傘が生産されるほどの一大生産地でした。しかし、現代では和傘の需要は激減。何百件もの和傘屋が軒を連ねていた岐阜市内も、3軒程となり、職人の高齢化と後継者不足により河合氏に白羽の矢が立ったのでした。

一人ですべての工程を習得


蛇の目傘 中張り(みかん)。見た目のかわいさだけでなく、和紙に引いた油の経年変化が目立ちにくいという利点もあります。。 参照:http://kasabiyori.com/category/products/

職人の世界に飛び込むことに、迷いがなかったわけではありません。しかし、子供の頃から思っていた和傘への思いを叶えるチャンスだという気持ちのほうが強かったのか、河合氏は和傘職人になることを決意しました。
和傘作りは、数十以上の工程があり、傘の骨を作る「骨師」、紙を張る「張り師」、油と漆を塗る「仕上げ師」などそれぞれの職人が分業して、数週間から数カ月をかけて一本の傘を仕上げます。しかし、河合氏が修行をしたのは、それらすべての工程でした。人手不足と職人の高齢化が進行する中、分業制は成り立たなくなるかもしれないという危惧を抱いていたのです。

伝統的な技術とデザイン性を兼ね備えた和傘


小蛇の目 水玉模様(赤)。カラフルな水玉模様がポップでかわいい小蛇の目。 参照:http://kasabiyori.com/category/products/

修業を終えた河合氏は、平成28年に新たなブランド『仐日和』を立ち上げます。伝統的な繊細な技術を駆使しながら、現代の洋装文化でも違和感のないデザイン性を持つ和傘は、現在多くの注目を浴びています。

職人のこだわりを持った「使ってもらえる商品」


蛇の目傘 月奴 赤に水玉模様 参照:http://kasabiyori.com/category/products/

丁寧な製作工程でつくられる和傘は、職人のこだわりを感じさせる逸品となります。「一番のこだわりは閉じた時の傘の姿勢です。岐阜和傘として販売する以上、すっとしたシルエットを大切にしています」と河合氏が語るように、伝統の技が光る岐阜和傘の特徴は、畳むと美しく、細く収まるシルエットです。河合氏はその伝統的な美しさを継承するために、竹の癖や気温、湿度までも計算しながら仕上げていくのです。
そして、河合氏のつくる和傘が大きな注目を集めていうるのは、伝統的な技術に忠実であることに加えて、現代の日常生活で使用しても違和感を感じさせないデザイン性にあります。河合氏の手によって出来上がった和傘は、「作品」ではなく、「使ってもらえる商品」として、多くの人に支持されているのです。

産業としての和傘づくりを


華やかな和傘の数々 参照:https://story.nakagawa-masashichi.jp/147591

「私の夢は私の傘が売れることや技術を残すことだけじゃなくて、産業として和傘文化を成り立たせること。和傘作りに従事する人たちが生活していけるようにしたいんです。そのためには、和傘と言えば岐阜と言われるように認知を上げること。そして生産量を増やすために、部品の供給が途絶えない体制を整えないと」と、将来の夢を語る河合氏。その考え方は問屋や職人などの和傘関係者を動かし、岐阜和傘協会では職人育成プロジェクトも始まっています。
今後も地元岐阜で和傘づくりを続けていきたいという河合氏。いつかまた、岐阜で多くの和傘屋が軒を連ねるのを見ることができるかもしれません。

情報や質問や感想などコメントを残そう!

モバイルバージョンを終了