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茶碗のことどれくらい知ってる?日本のお茶碗の雑学①

茶碗が日本の歴史をつくった~日本での茶碗の始まりと広がり~


国宝曜変天目茶碗 藤田美術館所蔵 出典:https://chiyoku.com/teabowl-kokuhou/

茶碗は中国大陸から伝来したと言われており、お茶を飲むためのものでした。日本では現代の茶道に通じる「侘び茶」という様式が発展し、その文化とともに茶碗も普通の什器から芸術品としても評価されるようになります。そして、日本の歴史上で、茶碗とお茶は非常に重要な役割を果たします。もし、茶碗とお茶がなければ、日本の歴史は変わっていたのでは無いかと思うほどに、時の権力者に愛され、そして、政治的に利用されるものでした。

中国大陸から伝わった喫茶の習慣と茶碗


「団茶」の数々 出典:https://sadou-ginyukai.jimdofree.com/%E9%9B%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%A0%B4/

日本でお茶を飲む習慣が始まったのは、奈良時代から平安時代にかけてだと考えられています。これは、仏教の伝来により、大陸との交流が始まったことによるものです。大陸に渡った遣唐使や仏教を学んだ僧侶が、お茶を持ち帰り楽しんでいたようです。
ただ、広くお茶というものが認知されていたわけではなく、一部の貴族や僧侶など、限られた階級の人達が嗜むものでした。また、お茶と言っても「団茶」や「餅茶」と言われる茶葉を臼などでついて固めたものであり、粉にして煮出すものでした。薄荷(ハッカ)や棗(ナツメ)など漢方薬の成分も入っていたようで、お茶を楽しむというよりも、薬として飲んでいたという説もあります。そして、お茶を飲むための茶碗は、一部中国製のものも持ち込まれていたようですが、まだ、木椀のようなものか、素焼きの陶器などで飲まれていたと考えられます。

お茶の流行と、権威の象徴でもあった「唐物」茶碗


宋時代の「唐物」 東洋磁器美術館所蔵 国宝油滴天目(ゆてきてんもく)茶碗 出典:https://chiyoku.com/teabowl-kokuhou/

本格的にお茶とその文化が広がり始めたのは、鎌倉時代から室町時代にかけてです。臨済宗の僧である栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)が、当時の中国大陸にあった国、宋(そう)へ2度留学して、禅を学ぶとともに抹茶の製法を日本に伝えました。
お茶に関して、栄西は「喫茶養生記」という書物に抹茶の製法やお茶の効能を記しています。また、禅の修行の眠気にもお茶が良いとして、禅寺に広めたり、お酒の好きだった時の将軍源実朝に、深酒の際にお茶をすすめたりしたといいます。
この頃から、お茶の文化は禅寺を中心として、武家や公家にも浸透していきます。健康面で良い、という理由もあったと思いますが、大きな理由としては武家と公家の政治的な折衝でした。そこに、もともと仏教を推奨していた天皇家との縁が深い禅寺が入ることで、「社交の場としてのお茶会」というものが形成されていきます。
室町時代初期には、特に武家にとって、お茶会は天皇や公家に文化的な側面を見せるために重要な場だったと考えられます。天皇の権威に押しつぶされないため、中国大陸に樹立された明との国交を盛んにし、その成果として茶会の席では大陸から輸入した希少な茶碗を披露していたようです。
この室町時代初期のお茶文化発展のときに用いられていたのが、「唐物」と言われる中国大陸から来た茶碗です。「天目茶碗」など、後ほどご説明しますが、現在国宝となっているような銘品が多数日本に伝わっています。

「わび茶」のはじまりと、「瀬戸茶碗」の登場


村田珠光 出典:http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/muratajyuko.html

次第に日本に浸透してきたお茶の文化ですが、まだ、いわゆる私達がイメージする「茶道」のような様式ではありませんでした。茶道に通じる「侘び茶」と言われる様式が考え出されたのは、室町時代中期頃、村田珠光(むらたじゅこう)(1423~1502)によるといわれています。
村田珠光は、一休宗純に禅の教えを授かったとされていて、それと同時に、禅寺でおこなわれていたお茶の習慣も習ったと言われます。
一休宗純は、御存知の通り「一休さん」の名で知られる後小松天皇の子息です。当時は戦乱や権力争いに巻き込まれるのを恐れて、皇族でも子供の頃に出家させてしまう場合が多くありました。そのようなことも、当時の仏教界と天皇のつながりが深かった理由でもあります。
一休に教えを授かった村田珠光は、時の将軍である足利義政の庇護を受けて、茶会における「侘び茶」の基礎を構築したとされています。華美なものを排し、禅の心につながる様式です。特に珠光がこだわったのが茶碗で、それまで好まれていた、輝くようできらびやかな茶碗を嫌い、茶色など一見して粗末とも言える茶碗を好みました。
この「侘び茶」という様式は、珠光の存命中にそれほど注目されることはありませんでしたが、室町時代末期に千利休の登場によって、大きな流れとなっていきます。
この頃にはまだ、大陸からの唐物茶碗が主流でしたが、禅寺などで日常的にお茶を飲む目的のため、国内産の茶碗も登場してきます。有名なのは瀬戸地方の「山茶椀」で、大量生産のため釉薬をかけないで製造した茶碗です。また、同時期に陶器づくりが盛んだった瀬戸では、ほかの地方の窯が素焼きのみを生産していたなか、一部ですが釉薬をかけた「古瀬戸」と言われる陶器を生産しています。

千利休の登場と国産茶碗の台頭


千利休 出典:https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/sakai/keisho/senjintachi/sennorikyu.html

応仁の乱以降、戦国時代に突入した国内で幕府の権力は衰退し、足利氏も京都を離れることとなってしまいます。都である京都は荒廃の一途をたどるのですが、逆に地方に戻った武家階級が京文化を広めることになりました。お茶の文化も例外ではなく、この文化の流出が茶聖として知られる千利休を生み出すきっかけになったとも言われています。
堺で商人をしていた千利休は、若い頃から茶を学び、侘び茶を考案した村田珠光に師事した武野紹鴎(たけのじょうおう)とともに侘び茶の研究をすることとなります。
利休が発展させた侘び茶とは、書院造の茶室で質素な茶器によりお茶を楽しむ、「わび」に通じるものです。武家社会では、まだ「唐物」が主流で、華美な茶碗を競うように披露する茶会が催されていました。当時、急激に勢力を伸ばしていた織田信長も、上洛した際に茶会に魅了され、高価な茶道具を次々に購入したと言います。
その信長に重用されたのが千利休です。信長の天下統一には、武力だけでなく精神論や文化的な側面も欠かせなかったことでしょう。それを支えたのが千利休でした。利休の茶会は、大陸からの「天目茶碗」や朝鮮の「高麗茶碗」なども使用しましたが、主には国産にこだわり、一見粗末にも思えるものに価値を見出しています。
利休のこのような考え方が、信長のみならず諸大名にも浸透していき、信長の茶会は、公家や諸大名との交渉の場として大きな役割を担っていたのです。
そして、利休により、お茶会に国産の茶碗が珍重されるようになると、「美濃焼」「志野焼」など、多くの窯がつくられて、国内の茶碗生産は大きく進展していきます。

江戸時代以前の茶碗職人達は無名だった


出典:https://www.pravafest.org/about-1

侘び茶が普及するにつれて、各地で窯も開かれ、それを製造する職人も増加していったと思われます。しかし、茶碗や焼き物は、窯元の職人が共同作業で製造するため、窯元の銘で評価をされていました。
唐物も同様で窯に加えて年代を記した「年款銘」もありますが、ほぼ作者の銘はありません。高麗物では、元来が雑器だったことから、窯元の銘などもなく、どこで焼かれたものなのかも、当時は不明でした(現代は科学的調査でわかってきています)。つまり、銘品の茶碗と言われているものでも、「誰が製作したのか」についてはあまりわかっていないのです。
この窯元の銘が入るという習慣は、現在まで続いていますが、室町時代末期ころからは作家や職人の銘を入れることも増えてきました。代表的な人物は千利休が自分の思想を表現した「楽焼」の製作を依頼した長次郎という人物です。後ほど詳しくご説明しますが、代々「樂」の印を使用するようになります。
そして、江戸時代になると、優れた作家や職人が多く登場して、自分の銘で作品をつくるようになっていきます。

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