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奥深い茶碗の世界
日本独自に発展した「茶の湯」、そこには必ず「茶碗」があります。職人が丹精込めて製作した茶碗に人々は魅了され、畏敬の念さえ抱くのです。茶碗をめぐる日本独特の逸話をご紹介します。
職人の技が光る金継ぎ、割れたものも愛でる日本の文化
金継ぎした茶碗 出典:https://www.asahiculture.jp/course/nagoya/6de86e02-7cef-1074-274c-5f0d1c300419
茶碗は陶器ですから、いつかは割れてしまう運命です。普通は割れてしまえば、廃棄することは当然ですが、茶の湯の世界では、修理をして使い続けることもあります。その技法が「金継ぎ」です。
利休などの名だたる茶人たちは、「侘び、さび」の心を大切にし、必ず訪れる運命をも受け入れて、愛でるという美意識がありました。もちろん、完全な形の茶碗も素晴らしいですが、欠けてしまったものでも、先人たちの思いや変化した形に新しい美を見出していたのです。
その美意識を体現するのが金継ぎ職人です。茶の湯の隆盛がはじまった室町時代から発展し、金継ぎ専門の職人は現在でも活躍しています。その技法は、漆で割れた部分を継いで、金粉で装飾。いかに、継ぎ目部分を美しく見せるのかが、職人の腕の見せ所となります。金継ぎの姿が美しく仕上がれば、割れる前の姿よりも美しくなる場合もあるのです。
茶道でお茶碗を回す理由
出典:https://cookbiz.jp/soken/culture/sado_kiso1/
現代の茶道でも受け継がれている作法に、「お茶を頂く前に茶碗を回す」というものがあります。2回、2回半など、流派によって回数は違いますが、作法の意味は同じで、それは「敬意」と「謙遜」です。
日本の伝統的な器には「正面」というものがあります。現代でも料亭などで食事を頂くと、必ず器の正面をお客様に向くようにしてくれます。その作法は、茶碗も同様です。まず、茶会を主催した亭主はお茶を点てて、「敬意」を表して茶碗の正面を客人が見えるように置きます。客人は茶碗の姿を鑑賞してから、茶碗を回して正面を亭主に見せるようにして頂きます。これは、正面からお茶をいただくのではなく、ずらすことで、「謙遜」を表しているのです。
茶碗を愛でながら、お互いを認め合い敬意を払う。茶室の中では身分や上下関係は考えないという茶道精神の表れと言ってよいでしょう。
信長と曜変天目茶碗
国宝曜変天目茶碗 稲葉天目(ようへんてんもく いなばてんもく) 静嘉堂文庫所蔵 出典:https://chiyoku.com/teabowl-kokuhou/
茶の湯の世界で「唐物」と言われる中国大陸で製造された茶碗、そのなかでも格が高いと言われるのが前述した「天目茶碗」です。そして、さらにそのなかでも最高級品として評価されているのが「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」です。
「曜変天目茶碗」とは、世界で完成品は3つしか存在しないと言われている、宋時代に建窯(現在の福建省南平市建陽区水吉鎮)で作られた、最上質の黒釉茶碗のことを指します。椀の内部に星のような斑紋があり、その周囲を虹彩が取り巻く模様を持ちます。さながら、宇宙空間で星を見ているような美しい景色です。しかし、当時の中国大陸では、天体現象を凶兆と捉えていたため廃棄されることも多く、完成品の3つはすべて日本にあります。そして、そのすべてが国宝に指定されています(曜変天目か議論になっている重要文化財指定の茶碗も1点存在します)。
そして、ここで織田信長の登場です。曜変天目茶碗は、当時から貴重なものであり、珍しいものが好きな信長も所持していたと言います。しかし、常に持ち歩いていたようで、本能寺の変で焼けてしまった、あるいは信長の死後、どこかに流出したなどさまざまな説が流布しています。
信長の所持していたものは、古文書と照らし合わせると足利義政から譲り受けた「芒曜天目(ぼうようてんもく)」という、現存しているものよりも格上の茶碗だという話もあります。
この信長の曜変天目茶碗は、歴史上のミステリーとして知られ、「信長の茶碗発見か?」などのニュースも時々見られますが、誰も見たことが無いため、鑑定も困難だと言われています
匠の手による美しい茶碗
ご紹介してきたように、古くから日本人に愛されていきた「茶碗」は、単なる什器ではなく、多くの人々を魅了し、ときには歴史に深くかかわる存在でした。そして現在でも茶碗の歴史は続いており、美しい茶碗の数々が現代の匠の手によって生み出されています。この記事の最後に、文部科学大臣が指定した重要無形文化財保持者、通称「人間国宝」と呼ばれる方々をご紹介しましょう。
荒川豊藏(1894年~1985年)
荒川豊蔵作 出典:https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20181030/02.html
荒川豊蔵(あらかわとよぞう)は、現在の岐阜県多治見市で生まれた、昭和を代表する陶芸家の一人です。有名な北大路魯山人とも交流があり、一時期魯山人が鎌倉で開いた星岡窯でも働いていました。
40歳ころに岐阜県の可児市に窯を開き、試行錯誤の後に、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を完成させ、その作品は魯山人にも認められたと言います。その後も岐阜を拠点に、志野焼と瀬戸黒を中心に作陶を継続。61歳のときに志野焼と瀬戸黒で人間国宝に認定されています。陶芸分野の人間国宝は、22の分野別に認定されていますが、荒川のように志野焼と瀬戸黒の2分野で認定されたのは、陶芸分野で初となります。
桃山時代の古志野の再現を目指して、独自の境地を開拓したと評価されています。
金重陶陽(1896年~1967年)
金重陶陽作 出典:https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20160816/06.html
金重陶陽(かねしげとうよう)は、岡山県出身で1956年、60歳のときに備前焼の人間国宝に認定されました。備前焼の人間国宝認定は、金重が初めてとなります。
備前焼は江戸時代の中頃から、伊万里焼や九谷焼などに人気を奪われていました。地元の焼き物が衰退していることを憂いていた金重は、備前焼の復興を目指して努力を重ねて、見事自ら人間国宝として認定されるに至り、目標を達成しました。
また、自身が陶芸家として研鑽を積むのはもちろん、多くの弟子たちを育てることにも尽力しています。その結果、備前焼で多くの名工を生み出すこととなり、平安時代から続くと言われている備前焼の歴史のなかでも、非常に大きな功績を残したと評価されています。
酒井田柿右衛門(1934年~2013年)
14代酒井田柿右衛門作 出典:https://www.gallery-sai.net/9742/
酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)は、有田焼の色絵で1670年頃確立された「柿右衛門様式」の創始者「初代酒井田柿右衛門」から数えて、14代目柿右衛門となります。
多摩美術大学日本画科で日本画を学んだ後、父である13代目柿右衛門に弟子入り。1982年に父親の死去に伴い14代目を襲名しました。海外での評価も高く、2001年に人間国宝に認定されました。
2013年にがんのために死去。翌2014年に息子が15代目柿右衛門を襲名しています。